BBSより・・・
三鷹のショパンコンサート 投稿者:梶山 弘  投稿日: 7月 7日(日)00時42分36秒

 結論としては、稀に見るショパンの夕辺となった。これを逃したとすれば大変に勿体無いことだと言える、ということです。この日の演奏はホールでは収録していたようですから、何等かの形で公開して欲しいと希望しております。NHKは自社収録のものしか放送しないでしょうから、cs-pcm classic-7かFM-TOKYO等の民放系での放送か、またはホールの資料室などでの公開をご検討頂きたいものです。

 この前の紀尾井町の演奏よりも更に良い演奏で、ゲキチの本領発揮(一番最初のライヴ盤のショパンのよう!!)です。解釈が個性的であることに異論がある場合はそれとして、特に注目すべきは、前半と後半での響きの差でしょう。前半では、元々ピアノの音がモコモコとして冴えないのでしょう、響きに芯がなく不調でしたが、休憩後の後半では、ホールトーンとピアノの音の統合をコントロールして自在に操り、明らかに前半と後半では弾き方を変えて、音を自分のイメージに持って行くというプロの技術の凄さを目の当たりにしました。更に、アンコールでも、この自在さは十度を深めて行き貴重な体験をさせて頂きました。

 さて、本日は、「午後一番から」は何もなく、ゲキチが登場したのは16時12分からで、演奏曲目は「英雄ポロネーズ」でした。その後、簡単なインタビューが若干あり(私には余り意味がある質疑応答には思えなかったが)、彼の英語が見事であることが分りました。ミルシテインやホロヴィッツの英語は訛が強いものでしたが、ゲキチの英語は見事でした。

 さて最後に運営について。素晴らしい点は、ゲキチのオールショパン・プロを企画したという点に尽きるでしょう。本当に感謝しております。しかし、幾つかの点は早急に是正を要する。特に、「演奏家に気持ち良く演奏をして頂くに際して」改善を要する点があると痛感しました。
7・6リサイタル 投稿者:yama  投稿日: 7月 9日(火)02時12分27秒
三鷹でのコンサートに行きました。
胸が苦しくてずきずき痛むショパンだった。素晴らしい。圧倒されてしまいました。私と友人はもう現代に個性ある面白いピアニストはいない、ピアノをとおして自分の内面を語る芸術家がなかなか
現れないと嘆いていました。私はケマル=ゲキチを知らなかった事を恥ずかしく思います。又この世に彼が存在していることが心の支えになります。一生ファンでありたいです。
今までの誰とも違うショパンだった。
三鷹の夜 投稿者:みどりのたぬき  投稿日: 7月 9日(火)09時13分45秒
三鷹のコンサートは、英雄ポロネーズに尽きます!!というか、「ショパンを弾こう」のときに駆けつけて(本当に時間ぎりぎりだったらしいです)弾いたときと、本番のものすごさ・・。ショパンが男性的な作曲家だったということがひしひしとわかる名演奏でした。本当にゲキチ先生は素晴らしいです!!あの長い長いサインの列も三鷹の夜の熱狂ぶりをあらわしているといっていいでしょう!!
はじめまして 投稿者:河合  投稿日: 7月10日(水)00時09分14秒
今回の紀尾井ホールと三鷹のに行きました。ゲキチさんの魅力にすっかりとりつかれてます。
特に紀尾井ホールのアンコールのエチュード、ギャロップには感激しました。三鷹の英雄も素晴らしかったにつきます
音の迫力に曲の作り方。。どれをとってみても斬新で本当に面白かったです
お人柄もとてもお優しそうで、一層ファンになりました
サインの列がすごくてファンの方が沢山いらっしゃるのが納得の演奏でした
また是非是非生の演奏をききたいです
三鷹のケマル・ゲキチ 投稿者:飯田  投稿日: 7月15日(月)11時08分59秒
精神を集中させてひと呼吸かふた呼吸・・・それからその夜のプログラムの1曲目、ショパンのバラード2番冒頭の和音を彼がおもむろに弾きはじめると、それだけでもう魅了されてしまいました。
それはかすれた肉声のような弱音、ひびきの底に耐えきれない痛みを隠しているような、なんともいえない音でした。
そして、ほかの誰にも似ていない、いくらか草書風の、自由奔放な語り口・・・あんなに辛いショパンを聴いたのは、はじめての経験です。
彼が独自のリズムで右手の装飾音をきらきらっとふりまくと、それにあわせて僕の視界もさあっと開け、厳しいフォルテの直後、彼がささやくようなピアニッシモで歩きだすと、その息遣いにあわせてこちらの胸まで疼いてくるのです・・・。
こんなふしぎな共振・・・聴いていて、僕はずっと胸が痛く切なかった。聴衆のひとりにすぎない僕の胸ですらここまで痛むのですから、語り部である彼自身は、恐らくそれ以上の痛みを演奏のあいだじゅうずっと耐えつづけていたにちがいありません。
これは、考えただけでハードな仕事です。彼ほどの資質があれば、それよりも楽なやりよう(美学的に整然と整理されたショパンだって彼は簡単に弾けると思うのです)はいくらでもありそうなものなのに、彼はそうした道をことごとく拒絶して、あえて真正面から、厳しい運命の潮流と対峙しようとするのです。
なぜ?
たぶん、彼の胸のうちに、こぼれんばかりの理想と夢があるためだと思います。胸中の夢が大きければ大きいほど、現実の障害は強く過酷になっていく。そんな荷物は棄ててしまえばいい、さもなければ少し積荷を軽くしてやれば、道中もずいぶん楽になるのでしょうけど・・・彼はその道を選びません。彼の決して尽きない苦悩はそこから生まれます。その意味で彼のショパンは「ひとはいかに生きるべきか?」というあの本質的な問いを、根源から問いつづける、愚直で不器用な、そして何よりも誠実で真摯なショパンということができるのではないでしょうか。あまりにもまつすぐな彼の誠実の光にあてられ、わが身の不誠実がいたたまれなくなった僕は、演奏会のとちゅう、幾度か目を伏せないではいられないほどでした。
あれほど苦しげに歌われるショパンなのに、聴きおえてみると、身体のうちになんともいえない清涼感が残るというのも、彼のピアノのふしぎな特質でしょう。その辺の見地からみると、ホロヴィッツなんかとはまったくちがう。ホロヴィッツのショパンは、寂寥から生まれてまた寂寥へと去っていく、そうしたショパンです。そこに希望の住む余地はない、ケマル・ゲキチはちがいます、彼のピアノは奈落を通っているときもたえず星空を思っている・・・今回の彼のショパンを僕はそんな風に聴きました。
Yamaさんをはじめとする皆さん、これからも彼を応援していきましょう!